3/12 土曜の走り。人工知能

 土曜日。2週間続けて土曜日も走った。ちょっと前までは寒くもあったし平日の仕事の疲れも残っていたのだろう、気分的に走る気になれなった。その借りを返すべく日曜に20キロ前後の長距離を走っていた。さすがに日曜は疲れも取れていたし、走らねばならないなという習慣からくる義務感か、義務感からくる習慣かはよく分からぬが、走った。

 走行距離は9.5キロ、平均ペースが5分36秒。走り終えた後に心身共余裕があったから、追い込めばまだ少しはペースは速められるが、無理するとだんだんにいやになるのでこれでよい。

 途中、梅の木が所々の家の庭に美しく咲いていた。あの枝ぶりを見ると梅であると思うんだが、早咲桜というものもあるようで、植物に疎い俺はよく分からぬ。薄いピンクと白の溶け合った花びらに所々濃い赤のにじみが出ている花々の木々だ。染井吉野ほど白くはない。染井吉野の開花はまだしばらく先のことだ。

 Googleが開発したアルファ碁という人工知能が囲碁界のトップ棋士に2連勝した。人工知能の大事件だ。トップ棋士は「まさか」の思いであろう。囲碁の指し手は宇宙の原子より多いそうな。その中で過去の棋譜から3000万手を学習し、勝ちへ導く戦略のもとで差し切った。学習のやり方、その結果である経験の積み方、戦略の持ち方、どうやったのかを知りたいものだ。

 コンピューターは記号の世界である。人間の言語も記号である。人間が発した言語は2進法で表される英数字にてすべてコンピューターが表現できる。囲碁の指し手も記号で表される。盤面のどの位置に打ったかを数字の組み合わせとすればよいだけだ。およそ人間社会の事実の中で記号で表せないものはない。交通事故に会って怪我をしたという事実では、事故の場所は緯度経度の数値、怪我をした部位とその損傷度合いもまず大まかな言語で表現できる。それよりも正確に表そうとすれば、人間の部位の位置を座標化し損傷度合いを数値化すればよい。損傷した細胞とその損傷レベルまでも記号化しようと思えばできる。

 つまり人間社会の表に出ている行動の結果、言葉はすべてコンピューターで表現可能であるということだ。次に時間に沿って集めれば、行動の経緯、言葉のやり取りという事象になる。それも時間に沿って単に集めるだけなので記号としてのデータ量が膨大になるだけで表現できるということに変わりはない。

 では次に意味というものを考える。意味というのも広い言葉であるが、観念と実態を結ぶところとまず考えてみる。猫という記号と実態の猫を結び付ければ、それは猫であるという意味になる。ある行動があり、そのINPUTとOUTPUTが認知されていれば、それはその行動の意味と言える。「私は腹が減ったので飯を食った。腹がふくれた。」という行動の場合、INPUTは「腹が減った」、行動は「飯を食った」、OUTPUTは「腹がふくれた」である。腹の減り具合、飯の量、腹のふくれ具合は、最も数値に置き換えやすいものであろう。行動が作用した結果も表現して、その行動の意味を定義したとできる。

 このように、表に出ている言葉と行動自体を既にコンピューターは記号化して表すことができ、さらにそれを現実世界に対応付けて意味を持たせることも、コンピューターの記号世界にて可能だということである。

 言語なり行動を記号化して何千万通り持ったとしよう。今度は或る目的に向けてコンピューター自身が判断する時をとらえる。まずは目的を記号化しなければならない。囲碁の場合は盤面にて自分の領地を多くとるということである。それは評価関数として表され、値を常に増やそうとするアルゴリズムがあれば目的を表現したことになる。今までのAIはその目的に至るロジックまでを考えようとしたが、現在の人工知能はそのアプローチをとらない。何千万通りのかつての事例の学習をさせるのである。学習はコンピューター自身が行う。囲碁の場合は領地を多くとる評価関数を置いておくが、それを最大にする試行の繋がりにおいて何らか状況を表す特徴的な値で構成される空間自体をコンピューターが形成する。「猫」を画像から見つける人工知能もあったが、最後に選んだ画像を「猫」であると言うのは人間だった。囲碁の場合は結果の定義と言うよりも、やはり評価関数の最大化と思うが、本当ところはいかに。

 人間の行動とその結果の事実、また目的に対する評価と言うものは、すべてコンピューターの記号化とアルゴリズムによって表されるということを、長々と述べたが、言いたかったことである。

 囲碁の世界は宇宙の原子の数より多い指し手と言っても有限であり、ルールもあるので、実はそのパターンをすべて記憶させれば、学習というものは不要である。人間の知りえないコンピューターが構成した特徴量の学習空間は、さすがに宇宙の原子の数以上のパターンを記憶させる記憶量をハードウェア的に実現するのはまだ困難であるから、ある程度状況判断して望ましい手を選び取ることに用いられているわけだ。そしてこのことは、人間の判断と重なる。人もすべての状況を完璧に把握した後に確実に正しい判断をしている訳でなく、そもそもすべてを把握することは不可能である。

 コンピューターにとって最も必要なのは、囲碁の3000万手の記憶であり、猫も映っている1000万枚の画像である。それがあれば人間と同じような判断ができる。それ以上になるのは造作もないことでもあろう。まずはもっとデータ量を増やせばよい。今のSNSのデータをすべて集めれば、囲碁とか猫とかジャンルを決めない、と言うよりも多くのジャンルを持った中で、そのジャンルに相応しい、あるいはそこを横断したより一般的な判断を出せる超物知り博士のようなものにコンピューターがなれることを必然と見る。2045年にコンピューターの知能は人間を超えると予言する人がいるが、そのように進むからそうなるという結果である。遅いか早いかはあろうが、私は必然と考える。

 人の感情をいうものをどう表すのか、解釈するのか。感情を行動の起点とするのかがまだうまい具合に定まらないものではある。愛、嫉妬、妬み、喜び、悲しみ、ぼんやりとした幸福感、そういうものが記号化できるのであろうか。嬉しさなどは報酬として数値化できるとは思うが、満腹になって満足する嬉しさと自分の仕事が認められた嬉しさや好きな人から告白された嬉しさとか、同じ嬉しさでも度合いと、次の行動につながる意味が異なる。尊敬している人の発した言葉と、嫌いな人の発した言葉は、まったく同じ状況に身を置いて受け取ったとしても完全に違う。発せられた言葉は記号であり、状況も記号的に表現可能であろう。でも異なる。

 ただ、社会が薄っぺらになり、表に出てくる情報だけで多数の人が考えや行動を決めるのであれば、いずれ超大規模コンピューターが天文学的なの事象の学習の下で大多数にとって「正しい」判断を下すことが正しいことになる。

 さて。
 


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